大槌学のすゝめ18

2014年11月12日

出会いと引き寄せ その1 ~あの伊能忠敬が前川家に~

 平成13(2001)年7月のこと。やがて姉妹都市となるフォートブラッグ市訪問のため、当時の町長、山崎三雄氏と渡米。帰途、サンフランシスコに。日本人向けの土産店「岡田屋」で、「伊能大図模写本207枚がアメリカ議会図書館で発見」という、毎日新聞の電子版に遭遇。
 平成16(2004)年に、その地図が里帰り。仙台市立博物館で、伊能のことを「四千万歩の男」に著した井上ひさし先生の講演会も。
 なんと会場に入るなり、最初に掲出されていたのが、大槌の部分。
 フロアーに敷かれた地図全体を、歩き回りながら見られるコーナーがあり、そこで写真をパチリ。
 菊坂峠があり、小鎚は木偏表記。大槌は「町」、赤い線が「道」。安渡濱は大槌村のうち、赤浜は書かれていませんが、蓬莱島も描かれています。
 町方の赤い線で描かれた道、今のまま、です。そうです、現代まで、引き継がれてきたのです。
伊能大図模写本-大槌町
 
 その「事件」は、安政7(1860)年に。いや、その「變(へん)」は、でしょうか。
 地下鉄、東京メトロ。有楽町線の桜田門駅。階段を上ると、皇居のお堀や警視庁、引きも切らない皇居周回のランナーたち。すると、
あっ、、、
 目映(まばゆ)い閃光!タイムスリップ!・・・・・
 雪が静かに降る。そして次の瞬間、忽ち阿鼻叫喚。
 「櫻田門外の變」と、正字では書くようです。
安政7年3月3日(西暦では3月24日)。大老、井伊直弼が暗殺された事件。
 今ではかなり一般的に使われるようになったことば、「一期一会」。これは、井伊直弼が著書「茶湯一会集」の巻頭に。
実は、その思想が、後年、世間に拡散したもの。
 一期(一生)に一度だけの機会を大切にしよう、と一般的に解釈されています。
 千利休の弟子宗二、「山上宗二記(やまのうえのそうじき)」に「一期に一度の会」とあることによる、とも。
 
 さて、一生に一度だけの機会。その瞬間に、そうだと思えること、あるでしょう。けれど、大概は、当たり前に過ぎて、振り返ると、「あっ」てな感じのことも。
 享和元(1801)年9月26日(西暦では11月2日)、伊能忠敬は、蝦夷地測量のために、岩手県沿岸を北上します。菊坂、現在の古廟坂を下り、小鎚川を渡り、城内から四日町に入ります。「八つ頃」、というと、その当時の時間で午後2時前後、宿に入ります。宿泊したのは、四日町の、代官所の役人を務めていた藤屋伝兵衛宅。「沿海日記」には、家のつくりが良いと書かれています。
 翌27日、朝の6時頃に出ようとすると雨が振り出し、逗留。夜には、天体観測を行っています。残された地図を見ると、藤屋から道路を北側に跨ぎ、どうやら代官所の敷地内で、北極星を計測していたようです。
 28日は朝7時頃に出立。八日町を測量し、向川原、新町と進み、大槌川を渡り、安渡に入ります。吉里吉里坂を上り、吉里吉里に。
 すると「沿海日記」は新しい頁、吉里吉里村。そして次のように続きます。
 
 前川善兵衛なるものあり
 富家にて世に知るところなり
 尤も旧家にて三四代已来は南部の家中となり
 富は古に遙かに劣りと云
 立寄て一覧す

 
 伊能の別の「測量日記」には、前川善兵衛旧家にて、 此四五代は南部の家中の由、立寄、諸国に所謂南部のキリキリなるものなり、と。
 横浜は、水産庁所管の中央水産研究所。ここに前川家文書が保存されています。「当家代々の記録」に、伊能が立ち寄ったことの子細が記されています。
 「どのようにして、伊能は、あれだけ精度の高い日本地図を作ることができた」のでしょう。
 「なぜ、伊能は前川家を訪ねた」のでしょうか。
(大槌町教育委員会事務局生涯学習課長 佐々木健)