大槌学のすゝめ19

2014年11月12日

出会いと引き寄せ その2~伊能忠敬と前川善兵衛の「一期一会」~

 
 伊能の測量の目的は、精度の高い地図を作ることではなく、
実は子午線一度の長さを割り出すこと。
その数字に360度を乗じれば、地球の大きさが判る、ことに。
 前川善兵衛家文書は、かつては品川の水産資料館に。
平成5(1993)年には水産庁中央水産研究所へ移管。
現在は独立行政法人水産総合研究センター中央水産研究所に保管。
昭和25(1950)年9月、約4,700点を水産庁が購入。
 かつて、中央水産研究所を訪問し、文書の悉皆(しっかい)調査を行うことの承諾を得て、平成14(2002)年から解読作業。
そして、「不時臨時公私諸用留(ふじりんじこうししょようどめ)」に伊能の来訪の記述を発見。
 曰く、隠居して勘解由(かげゆ)と名乗っているが、私どものことは多年にわたり聞き及んでいたので、御用のついでに訪問したいと思い、まわり道。江戸深川の八幡宮近くに住居があるので、江戸表に出たときは、「天文隠居勘解由」とお尋ねになれば分かるから立ち寄られたい。そう、懇(ねんご)ろに申されていた、ことなどが書かれています。
 寛政12(1800)年から文化13(1816)年まで、足かけ17年を費やし全国を測量した伊能は文政元(1818)年4月13日、歿、73歳。
 文政4(1821)年、『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』完成。
伊能の喪は、地図の完成まで伏せられていました。
伊能-勘解由
赤線のところ、
伊能勘解由(いのうかげゆ)と読めます。
 ツイッターやフェイスブックなどの様々なコミュニケーション手段は、巷に溢れ、生活の質の向上に貢献も。
 発信したり行動したりすることは、思いも寄らない素晴らしいモノを導いてくれること、あります。その好機をしっかり掴み、さらに良い方向へ持って行ける能力、或いは思いがけないモノを発見する能力のことを「セレンディピティ」、また「引き寄せ」、とも。英文学者の外山滋比古(とやましげひこ)氏や聖路加(せいろか)国際病院名誉院長の日野原重明(ひのはらしげあき)氏なども著書に記しています。
 測量の途中、伊能は前川を訪ねます。なぜでしょう?接点は?
 享保12(1727)年、三代善兵衛助友、一代限りの帯刀御免の特権を得ます。享保19(1734)年には、年間200石ずつの海産物を無税で他領に出す権利も。
 寛保元(1741)年、四代善兵衛富昌、家督相続、帯刀が許され、宮古大槌両通の〆粕(しめかす)差配役を任命されます。
 一方、承応3(1654)年、利根川東遷が完了。潮来(いたこ)から利根川と江戸川を経由し、水運により物資を江戸に直送することが可能に。東北諸藩の米蔵は潮来から銚子に移転、那珂湊(なかみなと)から銚子に荷揚げすることが増加。
前川家は、東回り航路により、干鰯(ほしか)や〆粕などを那珂湊や銚子に運んでいます。後に伊能が活躍する佐原(さわら)は、この物資の通り道にあります。
 前川が隆盛を極めようとしている頃・・・。
 伊能は、延享2(1745)年、上総国山辺郡小関(かずさのくにやまのべごおりこぜき)村(千葉県九十九里町小関)の名主・小関家に生まれます。
 宝暦3(1753)年、南部藩は、日光山本坊の修復を命じられ、前川家は米三万俵を引き当て(抵当)に五千両を調達。釜石十分一役取立の三カ年の引当金、二千両を調達。翌年、その七千両を、南部の江戸屋敷に上納。これが前川家衰退の契機。
 宝暦12(1762)年、伊能17歳。佐原の伊能家へ婿入り。
 明和6(1769)年、伊能24歳。江戸に薪問屋を出し、事業拡大へ。その後、佐原村本宿組名主。利根川洪水により堤防の修築に尽力、苗字帯刀を許され、やがて村方後見。
 寛政6(1794)年、49歳になった伊能は、隠居が認められ、家督を長男景敬(かげたか)に譲ります。50歳の時、江戸に出て、幕府天文方の高橋至時(よしとき)、当時31歳の弟子に。それから、天文学と測量学を本格的に学び、やがて全国測量へ。
 享和元(1801)年、55歳の伊能は、9月28日、吉里吉里前川宅訪問。五代富能(とみよし)は、この年の11月28日歿。
 伊能と前川の「一期一会」。それはそれぞれの「引き寄せ」だったのでしょうか。前川が千石船で那珂湊や銚子に物資を運んでいて、すると、伊能は前川の活躍を学び伊能家の再興へ。また、貪欲なまでの学ぶ姿勢が測量の旅を始めさせ、前川の住む吉里吉里に向かわせたのでしょうか。歴史という時間のどこかに、事実と真実が埋もれています。
 「一期一会」の出会いを大切に、発信し行動するなら、輝かしい希望の明日を、必ず引き寄せられます、あなた、なら。
(大槌町教育委員会事務局生涯学習課長 佐々木健)