大槌学のすゝめ21

2015年1月7日

浪板海岸の「蜃気楼」

 浪板海岸から望める「蜃気楼」。写真に載せた横線の位置が本来の水平線、線より上が実景、線の下には実景や空などの反転した虚像が見えます。
 地平線或いは水平線に近い大気が冷たく、その上層の大気が暖かい時に出現するのが、富山湾や琵琶湖などで見られる「上位蜃気楼」。一方、その逆で、下が暖かく上が冷たい時、「下位蜃気楼」が現れます。真夏にアスファルトがゆらゆら見える「逃げ水現象」も下位蜃気楼、「浮島現象」とも。
 上位蜃気楼は春に見えるとされています。下位蜃気楼は冬。星空が綺麗に見える夜、或いは翌朝、早起きして、蜃気楼を眺めてみてはいかがですか。
浪板海岸_蜃気楼
 「七草粥」。
正月七日に食する習慣。メディアへの露出が多く、認知度は高くなっているようですが、大槌に習いとしてあったものかどうか。
 語源辞典によれば、七草粥の風習は、中国大陸からの伝来、平安中期頃に始まったとされます。「春の七草」のセリ、ナズナ、ゴギョウ(母子草)、ハコベラ、ホトケノザ(田平子)、スズナ(かぶ)、スズシロ(大根)を粥に入れて食べます。それぞれにビタミンを補給する意味があるそうです。
 日本人に限らず、数字に語義を見いだそうとする傾向があり、「七」は、欧米ではラッキーセブンとも。
日本では、末広がりの「八」でしょうか。
 そこで「八景」。耳にされた方も多いことでしょう。大槌にも「八景」、あります。資料によると、大正期にはすでにありました。それらは、(1)大槌城址、(2)御廟坂(ごびょうざか)、(3)一本杉、(4)古廟(こびょう)、(5)御社地(おしゃち)、(6)代官所跡、(7)新山、(8)大勝院(だいしょういん)跡。
 平成13(2001)年、新大槌八景を、住民の総意で新たに選定。それが、(1)蓬莱島、(2)崎山展望台・野島、(3)高滝、(4)新山高原、(5)浪板不動滝、(6)浪板海岸、(7)鯨山、(8)城山公園。
 これらは、常にそこにあって、いつでも見られる場所。この八景も、中国の「瀟湘(しょうしょう)八景」が起源。その後、時代の変遷によって、意味合いが異なってきているようです。それは郷土愛醸成のため、或いは観光用、など。
 大槌八景、大槌新八景以外にも、優れた景勝、凌する絶景、あります。その一つは、「大槌学のすゝめ10」でも紹介させていただいた、浪板海岸の「片寄波に満月」。
ちなみに、平成27(2015)年2月の満月は、4日(水)、午後5時21分、大島と野島の中間地点から。
 一方、冬の厳寒期に見られるのが「蜃気楼」。
 おやっと思われる方も多いでしょうが、柳田國男(やなぎたくにお)が明治43(1910)年に発表した「遠野物語」。この106話に、「海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりといふ。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違ふことなしといへり」とあります。外国の景色?どう考えてもあり得ません。
 江戸時代後期の紀行家、日本民俗学の先駆者とも称される菅江真澄(すがえますみ)は、東北各地を巡り、紀行文を残しています。菅江真澄遊覧記、「今ふ能せばのゝ」(ケフノセバヌノ)、天明5(1785)年9月30日の項に、現在の北上市「後藤野」でのこととして、「狐の館(たて)」が見えるということを書いています。「狐の館」とは「蜃気楼」のこと。
 宇宙や自然界にも思いを馳せていた、花巻の宮沢賢治、蜃気楼のことを知らないはずはありません。「春と修羅第二集」、409「今日もまたしようがないな」(1925、1、25)と419映画劇「ベーリング鉄道」序詞(1925、2、15)に、蜃気楼のことを。花巻農学校の教え子に宛てた手紙にも。
 文政12(1829)年、江戸深川の浄瑠璃、富本節の語り手、富本繁太夫(とみもとしげだゆう)が著した「筆満可勢(ふでまかせ)」3月2日の項に、山田で蜃気楼を見たことが記されています。また、弘化3(1846)年、伊勢出身の北方探検家・松浦武四郎がまとめた「西蝦夷日誌」にも、蜃気楼のことが。
 さて、この蜃気楼、北からの寒気団が南下し、星空が澄み切って見える放射冷却の夜、そして翌朝、浪板海岸から望める水平線に、確かな「蜃気楼」が見えます。
(大槌町教育委員会事務局生涯学習課長兼図書館長 佐々木健)